なかけんの歩み

NAKAKEN 60th aniversary

中村建設株式会社は、
おかげさまで60周年。
今までも、そしてこれからも。

1960 → 1969

(昭和35年〜昭和44年)

人力からブルドーザーへ

【南赤石林道工事】
国内で初めて林道工事にブルドーザーを導入した中村一雄その功績は土木技術業界にセンセーションを巻き起こし、後の中村建設発展の基礎を築くことになった。

1960(昭和35)年、中村一雄が二代目社長に就任。当時は公共工事の実績が少なく、競合の少ない山間僻地の開拓工事に活路を求めた。その象徴ともいえるのが39年の南赤石林道工事である。
敗戦から20年。急速な高度経済成長を遂げる日本で、地方都市浜松にも労働運動の波が押し寄せ、ストライキの波紋が広がりつつあった。弊社は1966(昭和41)年に全員経営参加という目的で、初の社員総会を開催。1968(昭和43)年には、肩書きに関係なく、すべての社員が公平に一構成員であることを目指した組織「中建共済会」が発足した。

南赤石林道工事を1億4千万円で受注

昭和30年代後半、浜松建設業協会には100社に及ぶ業者が加入していた。会社創設からまだ歴史の浅い中村建設は、公共工事の実績が少なく、2代目社長に就任したばかりの中村一雄は、後発というハンディをどう克服するか模索していた。当時、県の西部地区には、交通の不便な山間僻地の、しかも危険度の高い林道工事に手を出すような業者は皆無だった。そこで一雄は、「人の嫌がる、競合の少ない工事=林道開発工事に重点を置こう」と閃いた。
 昭和39年5月、東京営林局から榛原郡本川根の南赤石開発幹線林道工事を1億4千万円で受注。標高1000mの断崖を切り拓き、道路延長4.5km、幅4.5mの自動車道を造るというものだった。
 施工前、調査グループを現地に派遣。南赤石連峰周辺は、大札山、竜馬ケ岳、蕎麦粒山など、1600m級の人跡未踏の深山が連立している難所だ。その山頂を縫って開発するのがこの幹線林道である。
 この路線は80%が岩肌を現わし、雑木が生えているとはいえ、その不気味さが恐ろしいまでに感じられる。受注した喜びも束の間、果たしてこんな難工事が工期内に完成できるのかどうか、調査団は大きな不安と焦燥に襲われた。調査を指揮した鈴木稔は、「通常の人力作業では期限内の竣工は不可能です」と一雄に報告した。

南赤石林道工事
南赤石林道工事
ブルドーザーを投入せよ!

そこで、一雄は社運を賭けて英断する。「ブルドーザーを投入せよ!」鈴木はもちろん、山間僻地の林道工事を5年間専任して来た永山も、作業責任者の野島もみんな唖然とした。こんな地盤の不安定な林道工事に機械を使うとは、誰もが予想もしなかったからだ。地形から懸念されたのは、ブルドーザーが迂回できるかどうかということ。勝負はこの一点で決まるのだった。
 5月6日、総動員で地形の調査を開始。岩肌の見える急斜面では、ブルドーザーの迂回は不可能だ。全員の失望は大きかった。ところが、ある職員から、山頂は意外に緩やかな勾配であるとの報告が舞い込んだ。これにヒントを得て、尾根伝いにブルドーザー10台を入れる計画を立てた。調査した結果、西方を走る山脈をよじ登り、その尾根伝いに進路を開設すれば、ブルドーザーを迂回投入できる可能性が判明した。こうして11kmに渡る迂回道の建設を開始したのだ。やると決めたら絶対に諦めない不撓不屈の精神。先代社長の竹蔵から受け継いだ、技術への執念である。
 いよいよ、ブルドーザーによる決死の前進が始まった。が、前人未踏の原始林を前進する作業は危険と困難を極めた。巨大な岩を砕き、原始林を拓き、丈なす熊笹を掻き分け、眼下に雲を踏まえ、ブルドーザーの本領を遺憾なく発揮したが、難所に次ぐ難所の連続で、苦難に身も心も疲労困憊を極めた。

南赤石連峰
南赤石連峰
昼は峻険に挑み、夜は危険と苦闘する日々

ことに水源地はなく、キャンプ地から往復3時間余もかかる谷間から水を運ぶ状態で、身体は汗と垢で黒ずみ、作業着は裂け、何日もの幕舎生活で身体の休まることもなく、体力と精神の限界に挑戦し続けた。夜は、静けさの中にフクロウの声が轟き、時にはサル、熊、シカ、タヌキ、狐などの来訪で熟睡できるはずもなく、下界では想像もできない劣悪な環境だった。昼は峻険に挑み、夜は毒蛇などの危害を排除しつつ苦闘すること10日余り、ついに計画地点にブルドーザーを進出させることに成功した。
 10台余りのブルドーザーは、全工区の各所で逞しい轟音を響かせ、日ごとに山容を変えていき、道路の形が徐々に見え始め、着工してわずか4か月足らずという驚異的な短期間で達成した。6月1日、ついに目的地に着いた。一同の腫れ上がった目には疲労の色も見えず、飛び上がらんばかりの歓声が山にこだました。
 従来、林道工事を施工する場合、工費が5千万円、工期が4か月位の規模の工事であれば、労務者が100人〜150人は必要だった。しかし、ブルドーザーを導入すれば30人前後で済む。また、山間僻地で多数の労務者を雇用することは、安全問題も含めて、労務管理に大きな困難が伴い、それも悩みの種だった。

中建の名を全国に轟かせた画期的な工法

そんな問題解消も含めて、林道工事に初めてブルドーザーを使うことを考えた中村一雄の功績は、当時の林業土木技術界にセンセーションを巻き起こした。数年を待たずして、林道工事の施工法が人力からブルドーザーへと移行されたのだから、その萌芽はまさしく中村建設が蒔いたといっても過言ではない。この画期的な工法は、中村建設の名を全国に轟かせ、その後の社の発展の基礎を築くことになった。

1960(昭和35年)

5月27日
初代社長中村竹蔵は勇退して会長に、専務中村一雄これを踏襲して2代目社長に就任する。

6月15日
増資 資本金 1,000万円となる。

1961(昭和36年)

5月1日
磐田合材工場新設。

5月12日
従来の「12日会」を改め「中建会」を発足。

1962(昭和37年)

1月26日
資材納入業者による「中興会」発足。

9月27日
社報創刊号発行(担当 立花恵吉)。

1963(昭和38年)

3月20日
1級建築士事務所登録(静岡県知事登録第451号)。

4月17日
東海道新幹線御津地区における工事金に絡む訴訟事件発生。

9月16日
会長中村竹蔵紺綬褒章を受賞。

10月22日
増資 資本金 2,000万円となる。

1964(昭和39年)

5月6日
南赤石林道工事において、ブルドーザーを迂回させての画期的工法開拓。

9月1日
機材部を設置。

断崖を切り拓くブルドーザー
断崖を切り拓くブルドーザー
南赤石林道工事の様子
南赤石林道工事の様子

1965(昭和40年)

6月16日
創立10周年記念式典を開催、本社々屋完成披露。

11月7日
増資 資本金 3,000万円となる。

1966(昭和41年)

6月20日
御津新幹線工事における工事金に絡む訴訟事件和解成立。

6月21日
会長 中村竹蔵逝去、社葬。

故中村竹蔵会長の社葬
故中村竹蔵会長の社葬

1967(昭和42年)

1月1日
社歌制定。

3月31日
第12期決算において、完成工事高はじめて10億円の大台にのる。

9月1日
磐田営業所開設(所長 宗賀元春)。

1968(昭和43年)

2月27日
水窪町永福寺において、同地方工事殉職者の慰霊供養を行う(供養塔建立)。

7月3日
増資 資本金 4,000万円となる。

10月26日
「中建共済会」発足。

中建共済会館
中建共済会館

1969(昭和44年)

4月1日
浜松工事機材株式会社を設立。

5月28日
中村住宅株式会社を設立、後に中建住宅株式会社と改める。

8月
新城に新アスファルトプラント完成。

新城アスファルトプラント
新城アスファルトプラント