なかけんの歩み

NAKAKEN 60th aniversary

中村建設株式会社は、
おかげさまで60周年。
今までも、そしてこれからも。

1970 → 1979

(昭和45年〜昭和54年)

ピンチをチャンスに変えた大英断

掛川バイパス函渠新設工事
掛川バイパス函渠新設工事中に発生したジャンカ。中村一雄は補修ではなく、「全部壊してやり直し」を指示。
納期に完成させたのは、紛れもなく中建の底力だった。

1975(昭和50)年、完成工事高を5年単位で倍以上に伸ばし続け、6月には創立20周年式典を開催。掛川支店も開設され、すべてが順風満帆に進んでいた。その年の秋、悪夢は起こった。掛川バイパス函渠新設工事でジャンカを出してしまったのだ。建設省(現国土交通省)からは補修で良いという指示が出たにも関わらず、一雄は「すべて壊してやり直す」という判断を下す。金額的な損失は計り知れなかったが、「信用はお金では買えない」という一雄ならではの経営哲学を貫いた。このリカバリーを機に、公共土木工事のシェアを拡大したのである。

その年の十指に入る大型受注に
ジャンカが発生

昭和50年、着実に業績を伸ばし続ける中村建設。6月15日には創立20周年式典も盛大に行われた。すべてが順風満帆で、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
 名古屋支店に続いて、掛川支店もオープン。開設して初めての大規模公共工事となる掛川バイパス函渠新設工事を国交省から単独で入札し、その請負高はその年の十指に入るほどの大型受注だった。社員の志気はますますヒートアップした。
 その年の秋、悪夢は起こった。
 掛川支店長、伊藤和一郎のもとに現場監督の池田良男から電話が入った。
 「大変です。函渠にジャンカが出ました!」。
 当時は、まだ誰もが大型コンクリート工事の経験が浅く、機械設備も今ほど整っていなかった。職人は不慣れな地元掛川の石工たちだ。しかも、建設省が指定する生コンは通常よりも固いため、ジャンカが出やすいのは確かだった。しかし、池田の緊迫した口調は事態の深刻さを物語っていた。
 現場に急行した伊藤の目に、型枠を外したばかりの函渠を前に愕然と立ち尽くす池田の姿が映った。函渠は高さ5m、全長30mで、両サイドの側面すべてにジャンカが発生していた。明らかな施工不良である。

写真は掛川バイパス2期工事(1978年〜1979年)
写真は掛川バイパス2期工事(1978年〜1979年)
すべて壊して、最初からやり直せ!

中村一雄は、伊藤と池田にこう伝えた。
「その程度の金で信用は買えないんだ。いいか、絶対に諦めるな。最後までやり遂げるんだ。中建の底力を見せてやれ!」。トップのその決断に込められた状況認識の鋭さを知って、二人は震えたという。
「一雄社長のために何とかしたい! やってやろうじゃないか!」
現場の気持ちはひとつにまとまっていた。竣工直前まで工事が進んでいたため、それを解体するのがまず大変だった。そこで、あさま山荘事件で使われたような巨大な鉄球を使って函渠を取り壊した。コンクリートを打つ職人も全員入れ替え、建築部から応援を呼んだ。土木と建築のジョイント、これこそ中建の総合力だ。
それからは夜もライトアップしながらの突貫工事となった。二度と同じ過ちは許されないという極限状況のなか、男たちの挑戦は続いた。

これだ、これこそが中建の底力だ!

そして、型枠を外す運命の日がやって来た。祈るような気持ちで見守る伊藤支店長と大勢のスタッフ、職人たち。「頼む、どうかジャンカが出ていませんように」。池田が型枠を外すと、ツルツルとして真っ平らなコンクリートが姿を現わした。「やったー!」と誰かが叫び声をあげた。成功だ。伊藤はへなへなとその場に膝から崩れ落ちた。
 本社の社長室では、一雄が静かに報告を待ち受けていた。そして、伊藤から電話がかかってきた。
 「社長、やりました。ジャンカは出ていません。間に合いました!」
 「そうか、ご苦労さん。よくやったな」。
 それ以上はもう言葉にならなかった。電話を切ると、一雄の目に熱いものがこみ上げてきた。
 「これだ、これこそが中建の底力だ」。
 高い授業料ではあったけれど、このリカバリー工事を機に、中村建設はコンクリートの知識と技術力を数段レベルアップさせることができた。そのノウハウを活かし、その後も公共工事の函渠新設を次々と手がけ、建設省やクライアントからの信頼を確実なものにしたのである。
 絶体絶命のピンチをその後のビジネスチャンスに変えた一雄の大英断は、現在の「なかけんクオリティ」を築くターニングポイントとなったのだ。
 普段、私たちが何気なく通行している掛川バイパス。40年前、西郷インター付近の現場で、これほど凄まじい男たちのドラマがあったとは、知る由もない。

1978年当時の掛川支店
1978年当時の掛川支店

1970(昭和45年)

2月18日
中建共進会(鳶土工、大工、鉄骨業)結成。

3月31日
第15期決算において、はじめて利益金1億円の大台にのる。

6月20日
増資 資本金 5,000万円となる。

1971(昭和46年)

4月1日
新城営業所開設。

8月1日
工事検査室を設ける(室長 安永正喜)。

9月
「中建マナー」が成文化される。

1972(昭和47年)

10月23日
堀留川改修工事現場において、幼児水死の事故発生(示談解決)。

1973(昭和48年)

1月23日
中村一雄社長は、(社)静岡県建設業協会会長に就任。

10月18日
全国で初の静岡県建設産業会議所結成
(中村一雄社長は、会頭に就任)。

1974(昭和49年)

7月7日
七夕豪雨に見舞われ被害大。特に、更新して火入れ式直前の磐田合材工場のプラントは水没し被害甚大。

11月27日
中村一雄社長 黄綬褒章受賞。

冠水した磐田合材工場プラント
冠水した磐田合材工場プラント

1975(昭和50年)

1月9日
「中村建設協力協同組合」創立総会開催。

4月1日
掛川支店開設
(支店長 伊藤和一郎)。

6月15日
創立20周年記念式典挙行。

10月
掛川バイパス函渠新設工事でジャンカが発生。

創立20周年式典
創立20周年式典
掛川バイパス函渠
掛川バイパス函渠

1976(昭和51年)

4月1日
材料試験研究室を設ける(室長 竹村寧)。

6月21日
増資 資本金1億2,000万円となる。

8月1日
宅地建物引取業免許を取得。

1977(昭和52年)

12月31日
中建住宅株式会社を合併、資本金1億2,200万円となる。

1978(昭和53年)

3月31日
掛川支店1年間無災害記録証を受ける(静岡労働基準局長)。第23期決算において、完成工事高50億円を突破。

1979(昭和54年)

1月10日
コンピューター導入。

3月31日
本社々屋の増築工事
(創立25周年記念事業)竣工。

コンピュータ室
コンピュータ室